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		<title>きけ、わだゆうのこえ</title>
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		<description>身辺雑記帖—社会的発言への質的転化を課題とした。</description>
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		<item rdf:about="http://wadayu.21dez.org/index.php?e=163"><link>http://wadayu.21dez.org/index.php?e=163</link><title>板橋ふぼれんという「小さな場所」</title><description>　7月6日、板橋区保育問題協議会が主催する、「板橋区との懇談会」に参加した。今年の6月から板橋区保育園父母の会連絡会（板橋ふぼれん）の会長をしており、今回、はじめて顔を出してみた。「懇談会」といっても、実際のところ、労使交渉のような感じで、一方に板橋区の子ども家庭部関係者がずらっと並び、他方で保護者や区職労の保育園分会、保育園問題に</description><content:encoded><![CDATA[　7月6日、板橋区保育問題協議会が主催する、「板橋区との懇談会」に参加した。今年の6月から板橋区保育園父母の会連絡会（板橋ふぼれん）の会長をしており、今回、はじめて顔を出してみた。「懇談会」といっても、実際のところ、労使交渉のような感じで、一方に板橋区の子ども家庭部関係者がずらっと並び、他方で保護者や区職労の保育園分会、保育園問題に関心をもつ市民が並び、対決しあうという感じだった。1時間という時間も決まっており、国会質問のような感じのやりとりで、もっと両者がコミュニケーションできるような懇談会でなくてはいけないと強く感じた。保育問題協議会が事前に提出した質問・要望事項に区側は用意した答弁をただただ棒読みした。参加者を説得させようともしていない。これはまずい、と思った。<br />　板橋区のホームページには、「行政サービスの質を一層高め、マニフェストを実現するためには、区政の担い手である職員の意識を高め、資質や能力を向上させるとともに、区民本位の姿勢と公務員として当然に備えるべき倫理を徹底して区民との信頼関係を築くことが必要です」（たとえば、<a href="http://wadayu.21dez.org/http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/009/attached/attach_9234_1.pdf" target="_blank">いたばしNo.1実現プラン</a>）ということが明記されている。あえて、名前と発言内容を今回は公表しないが、今回の懇談会での板橋区の公務員の態度は倫理に欠いていたといわれても仕方がないような印象をもった。「信頼」関係を結び直さないといけないと思う。<br />　私は、はじめての参加だから、おとなしくしようと思っていたのだが、「公立保育園に子どもをあずけている保護者として、公立保育園では特色のある保育ができないから民営化するという発言は、公立保育士の仕事ぶりを無視したもので大変不愉快であるし、そもそも今回の懇談会の場での行政側の高圧的なものの言い方では、こちら側が心理的に萎縮し、自由に何も言えなくなり、こうした発話状況をつくっておいて本当に区民の声を行政に活かそうとしているのか。今後、保護者相手に発言をする際には気をつけて欲しい」と、主張せざるをえなかった。会場から拍手があがり、公立保育士のかた何名かからは私の発言に溜飲を下げたと、感謝してくれた。それはそれでうれしかった。だが、私の発言は行政のありように踏み込んだ発言ではなく、他方で、自らの不勉強も感じていた。保育行政にかぎらず、広く板橋区の行政について知らないといけないし、現在板橋区が展開しようとしている民営化路線についてもっと事実を知り、シャープに発言しないといけない、と反省した。<br />　他方で、区側からは、やんわりと、懇談会に集まっているのはおなじみのみなさんで、板橋ふぼれんをはじめ、保育問題協議会がどこまで実際の板橋区の保育園に子どもを通わせている保護者の声を代弁しているのか、その正当性が問われた場面があった。私は板橋ふぼれんにかかわって、1年ぐらいだが、板橋ふぼれんの活動は、確実に保護者の声なき声を〈代弁〉していると思う。とはいえ、今回の区との懇談会に板橋区内の保育園に通わせている保護者がもっと集まってもいいし、運動としては集めるだけのことをしないといけないと思う。それは大きな運動側の課題である。もっとも、平日の、しかも週の前半の火曜日の19時に板橋区役所で懇談会をもつということが、区民（保護者）本位ではないことも強調したい。ただし、こうした日時の設定には、行政と運動との力関係が反映されているかもしれない。<br />　板橋ふぼれん会長としては、専業主婦／待機児童をかかえる保護者／実際に保育園に子どもをあずけている保護者、現役保護者／OB保護者、公立保育園／私立保育園、認可保育園／認証保育園、といった分断線をこえて、ひろく保育問題に関心のある人たちが気楽に集まり、楽しく運動できるような場として、板橋ふぼれんを拓いていかないといけないと思っている。ブログを開設したり、センスのあるおしゃれなリーフレットを作成したり、民営化問題、保育制度問題を考える機会のみならず、親子のコミュニケーション、子どもの遊び、絵本の読み聞かせの仕方といった子育て文化を具体的に議論する場を設けて行きたい。保育園民営化の同時代史的検証もやりたい。<br />　私にとって、板橋の保育運動に身を投じることは、保育園の民営化に象徴される新自由主義に巻き込まれながら巻き返し、歴史を創る立場に立つことだと理解し、運動に取り組んでいる。こうした経験は、現在を歴史的現在としてより深く理解する契機となり、ひいては、現在取り組んでいる1960年代の保育所づくり運動の歴史研究の問題関心を形成することになる。つまりは、私にとって、板橋ふぼれんは、歴史への問い／現在への問いを発する上で不可欠な、「小さな場所」（大門正克）ということだ。]]></content:encoded><dc:subject>雑記</dc:subject><dc:date>2010-07-07T01:06:54+09:00</dc:date><dc:creator>yuwada</dc:creator><dc:publisher>BlognPlus</dc:publisher><dc:rights>yuwada</dc:rights></item>
		<item rdf:about="http://wadayu.21dez.org/index.php?e=160"><link>http://wadayu.21dez.org/index.php?e=160</link><title>板橋茶論のホームページをつくりました</title><description>　これまで、わたしのブログのなかで、「板橋茶論」の案内をしてきました。ですが、今月から、新しく「板橋茶論」のホームページを独自に作成することにしました。アドレスは、http://itabashisalon.net/です。ぜひともよろしくお願いいたします。　細く長くつきあっている、現在高校の教員をやっている</description><content:encoded><![CDATA[　これまで、わたしのブログのなかで、「板橋茶論」の案内をしてきました。ですが、今月から、新しく「板橋茶論」のホームページを独自に作成することにしました。アドレスは、<a href="http://wadayu.21dez.org/http://itabashisalon.net/" target="_blank">http://itabashisalon.net/</a>です。ぜひともよろしくお願いいたします。<br />　細く長くつきあっている、現在高校の教員をやっている知人に、「まずは1年続けることが大事だ」といわれ、その言葉がはげましになり、2009年度の1年目を終えました。今年から、2年目にはいりました。武田和夫さん、千種伸彰さん、私の3人を軸に、地域にこだわりつつ、政治的教養を高める場として充実した場にしていきたいと思います。その決意もあり、「板橋茶論」のブログを独立させました。<br />　なお、このブログでは案内できませんでしたが、第10回を、2010年5月1日（日）、富士見地域センターで「戦後日本を技術者として生きる」というタイトルで長島洋介さんのライフヒストリーをきく集まりを、第11回を6月5日（土）、富士見地域センターで「高島平団地のまちづくりと市民」というタイトルで井垣寿子さんにご自身がかかわってこられた高島平再生プロジェクトの話をうかがいました。<br />　第12回は、7月4日、第11回の延長戦で、井垣寿子さんを案内人に高島平団地を歩くことになりました。詳細は新しい「板橋茶論」のブログに掲載していますので、そちらをご覧ください。<br />　そして、このブログは、個人のブログとして、書き続けようかな、と思っています。愛読者に歴史学研究会に出会ったのも動機のひとつです。このブログはもともと「きけ、わだゆうのこえ」という大学時代に個人で発行していたエッセイをブログ化したものでした。ブログを書くのではなく、エッセイを書き、公表するというスタンスでこれまでやってきました。]]></content:encoded><dc:subject>板橋茶論</dc:subject><dc:date>2010-06-20T16:05:18+09:00</dc:date><dc:creator>yuwada</dc:creator><dc:publisher>BlognPlus</dc:publisher><dc:rights>yuwada</dc:rights></item>
		<item rdf:about="http://wadayu.21dez.org/index.php?e=159"><link>http://wadayu.21dez.org/index.php?e=159</link><title>「溜め」と「性急さ」</title><description>　久しぶりに大学院の演習に出席した。報告者に対する清水透さんのコメントが清水節でよかった。情報量が多く、論点が多岐に渡る報告に接して、清水さんは論としてまとめるには、AはBであるというかたちで、報告のエッセンスを800字でまとめるといいと助言していた。この言い方、心に留めておこう。　私も内容上コメントをもとめられたが、そこで意識した</description><content:encoded><![CDATA[　久しぶりに大学院の演習に出席した。報告者に対する清水透さんのコメントが清水節でよかった。情報量が多く、論点が多岐に渡る報告に接して、清水さんは論としてまとめるには、AはBであるというかたちで、報告のエッセンスを800字でまとめるといいと助言していた。この言い方、心に留めておこう。<br />　私も内容上コメントをもとめられたが、そこで意識したのは性急な否定的な批判にならないようにするということだった。そのためには「溜め」が必要だ。「溜め」とは報告者の報告を尊重し、その報告（対象）に対して批評することだ。私が「溜め」て批判することができたとしたら、それは、清水さんのコメントをまずきいたのが大きい。ここで言いたいことは、コメント内容のうまさということでは直接ない。演習という開かれた場を意識したうえで、振る舞うという作法が「溜め」には必要なのではないかということだ。「溜め」ることができるには、私自身が議論する共同体の一員なのだという自己に対する突き放し方が要るのではないか、ということである。「溜め」るためには、共在という意識が必要だということだ。徒党を組むような人間関係（ゼミ）では「溜め」の精神はうまれない。<br />　加藤公明さんは『考える日本史授業3』で事実認識—関係認識—本質（全体）認識という三層構造を設定しているが、この議論を援用すれば、批評空間は関係認識において議論することで開かれるのである。本質（意味）のレベルでいきなり議論をすることは性急な行為なのである。そうした行為は、世界観闘争であり、敵味方の議論になってしまう。何よりもこうした議論は窮屈だ。私もついそうした批判をしがちなので、気をつけようと思う。ただ、これも心がけさえあれば、性急さから逃れられるわけではなく、事実をよく認識し、つねにその関係（構造）を意識するという、「勉強」が不可欠だということだろう。事実を踏まえない議論は過剰に意味付与に走り、結果として性急になるのだ。関係認識の議論が授業で保障されていれば、学生に対して教師は抑圧的にふるまうことはないのだ。そして教師に対して批判する自由も生まれるのだ。<br />　ちょっとした自慢をすると、2009年度の社会・地歴科教育法を受講した女子学生が、この授業は相手とは違う意見、反論できるところが好きだったと言ってくれた。それが可能であったのは、私が人格者だったからではまったくなく、あくまでも加藤公明実践とはどういう実践なのかを解明するという次元で授業を組み立てていたからだ。<br />　「溜め」という精神的態度は、文体にも現われてくるだろう。文体は思考そのものだからである。「溜め」の必要性を主張して、その人自身が全く性急だということは充分にありうる。「溜め」るためには、自己を否定する反省が不可欠なのだろう。]]></content:encoded><dc:subject>雑記</dc:subject><dc:date>2010-01-07T17:23:55+09:00</dc:date><dc:creator>yuwada</dc:creator><dc:publisher>BlognPlus</dc:publisher><dc:rights>yuwada</dc:rights></item></rdf:RDF>