よく聴き、言葉を紡ぎだすこと
愛知教育大学教員で教育学が専門の子安潤さんのホームページ「子安潤のインターネット圏」にある雑誌・図書短評Magazineを愛読している。この記事のファンはかなり多いようにも思う。子安さんとは直接にお会いしたことがないが、論文や著作を読む限りだが、信頼できる研究者だと感じている。子安さんの薦めるものは間違いないだろうということで、本を選ぶ際の基準にしている。
そこで最近購入し、連休中に読んだのが、齋藤知也『 教室でひらかれる<語り> 文学教育の根拠をもとめて』(教育出版、2009年)である。世間的には連休だが、連れ合いは生活協同組合勤務で祝日関係なく出勤する。しかし保育園は休園。連れ合いが随分と気を遣ってくれて、職場の同僚に無理をいって半休、有給休暇の消化をしてくれた。ありがたい。それでもやはりストレスがたまるなあー。そもそもこの本を手にしたのには、今夏、法政大学の通信教育部のスクーリングを担当し、そこで国語教員を志望する通教生に出会ったことが影響している。もう一つは、テキストの「読み」という問題を実践的に考えたかったからだ。ちなみに、著者は自由の森学園の日本語科教員。
同書は第一部が理論編で、第二部が『蜘蛛の糸』『高瀬舟』『山椒魚』の実践記録。田中実の仕事に深く学び、ラディカルに思考している一冊である。このブログで批評している社会科教員に同書を学び切ることが必要だと思うと知的興奮状態のなかハガキをつい書き送ってしまった。そのハガキを書きながら確認したことは、丸山眞男のいう他者を他在に置いて理解することの重要性であり、藤田省三のいう「経験」による変貌の意味であり、『山椒魚』『蜘蛛の糸』の実践では読者に対して「東電OL」へのまなざしを反省させる桐野夏生の『グロテスク』を想起した。また、学部ゼミの指導教員であった蔭山宏先生の西郷信綱論の意味もあらためてみえてきた。経験をモノと人との相互交渉と定義づける藤田だが、モノを「実体」ではなく「実体性」として理解する必要が私にはあったのだ。
また、齋藤は「読み」を民主主義の問題としても提起している。また共同体への自己批判=更新に通じる、状況を開く「読み」に倫理的可能性を見ている。抑制の利いた「自森」批判もよかった。抑制が利くのは、齋藤もまた共同体に加担していることを自覚しているからだ。
ある人の話に対して、「半分わかって、半分反対したい」というような腰の軽い聴き方ではダメなのだと思う。徹底的にわかるか、わからないか、わかりそうでわからないのか。よく聴くこと、そして、言葉を紡ごうとすること。言語が認識である以上、既成の言葉で自己(他者)を了解するのではなく、言葉を紡ぐなかで自己を更新していくことが認識を深めていくのだと思う。よく聴き、言葉を紡ぎだすことを齋藤自身が実践している。だからこそ、齋藤は学生の「他者」足り得ているのだ。ここでは、感想を安易に書き表わすなといった内田義彦が思い出される。これまた蔭山先生の西郷信綱論に引用されている。
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