「溜め」と「性急さ」
久しぶりに大学院の演習に出席した。報告者に対する清水透さんのコメントが清水節でよかった。情報量が多く、論点が多岐に渡る報告に接して、清水さんは論としてまとめるには、AはBであるというかたちで、報告のエッセンスを800字でまとめるといいと助言していた。この言い方、心に留めておこう。
私も内容上コメントをもとめられたが、そこで意識したのは性急な否定的な批判にならないようにするということだった。そのためには「溜め」が必要だ。「溜め」とは報告者の報告を尊重し、その報告(対象)に対して批評することだ。私が「溜め」て批判することができたとしたら、それは、清水さんのコメントをまずきいたのが大きい。ここで言いたいことは、コメント内容のうまさということでは直接ない。演習という開かれた場を意識したうえで、振る舞うという作法が「溜め」には必要なのではないかということだ。「溜め」ることができるには、私自身が議論する共同体の一員なのだという自己に対する突き放し方が要るのではないか、ということである。「溜め」るためには、共在という意識が必要だということだ。徒党を組むような人間関係(ゼミ)では「溜め」の精神はうまれない。
加藤公明さんは『考える日本史授業3』で事実認識—関係認識—本質(全体)認識という三層構造を設定しているが、この議論を援用すれば、批評空間は関係認識において議論することで開かれるのである。本質(意味)のレベルでいきなり議論をすることは性急な行為なのである。そうした行為は、世界観闘争であり、敵味方の議論になってしまう。何よりもこうした議論は窮屈だ。私もついそうした批判をしがちなので、気をつけようと思う。ただ、これも心がけさえあれば、性急さから逃れられるわけではなく、事実をよく認識し、つねにその関係(構造)を意識するという、「勉強」が不可欠だということだろう。事実を踏まえない議論は過剰に意味付与に走り、結果として性急になるのだ。関係認識の議論が授業で保障されていれば、学生に対して教師は抑圧的にふるまうことはないのだ。そして教師に対して批判する自由も生まれるのだ。
ちょっとした自慢をすると、2009年度の社会・地歴科教育法を受講した女子学生が、この授業は相手とは違う意見、反論できるところが好きだったと言ってくれた。それが可能であったのは、私が人格者だったからではまったくなく、あくまでも加藤公明実践とはどういう実践なのかを解明するという次元で授業を組み立てていたからだ。
「溜め」という精神的態度は、文体にも現われてくるだろう。文体は思考そのものだからである。「溜め」の必要性を主張して、その人自身が全く性急だということは充分にありうる。「溜め」るためには、自己を否定する反省が不可欠なのだろう。
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